ドアが小さくノックされた。
「小林、起きてる?」
続いて控えめな花崎の声が聞こえた。
深夜というには早い時間。
しかし寝るには早くない時間。
「なんだ?」
普段なら寝ている小林は、ベッドには横になっていたものの、すぐに起き上がって返事をした。
その声を聞いて花崎はドアを開く。
明かりはついていないので表情は見えないがカーテンから漏れる月明かりで輪郭は分かる。
「ちょっと散歩行かない?」
「今からか?」
眠っているとは言えない状況だったとはいえ、起きて出かけるには流石に遅い。
「駄目?」
しかし花崎にそう問われ、明日は帰るだけなのだし車の中で寝れば良いと、小林はベッドから下りた。
昨今の夏は夜でも暑いが、海風のおかげでそれなりに涼しい。
昼よりも海が近づき狭くなったビーチサイドを月明かりを頼りに歩く。
言葉はない。
波の音と砂を踏む音だけが響く。
花崎らしくなくあまりに静かに歩くものだから、小林は花崎を見失わないように必死に後を追う。
こういう時、やはり悔しくなる。
触れることができれば、その手を掴んで離れないようにできるのに、と。
「どこ行くんだよ」
不安から、小林は声をかける。
そこで漸く花崎が足を止めて振り返った。
「特に予定はないよ?」
ただ小林と二人で歩きたかっただけだと花崎は言う。
「しっかし出てきたのは良いものの、夜の海って暗くてうっかりすると飲み込まれそうだなー」
花崎の言葉に小林は厭な気持ちになる。
「飲み込まれんな」
言葉にして告げれば、花崎は苦笑した。
「飲み込まれねーって。でも……小林と二人ならそれもいっかなーって思わないでもねーかな」
「ちゃんと二人でだろうな?」
二人で一緒だというなら、小林もこの海の闇に飲まれることに抵抗はない。
「もう置いてかねーって約束したろ」
「ならいい…けど、そういえばお前、光らねえから見失わねえ距離にいろよ」
小林の言葉に花崎は噴き出した。
「そういえばって、人間なんだから普通に光る訳ねーじゃん! クラゲとかイカじゃねーんだから」
「でも普段眩しいだろ。明るいとこならすぐに見つけられる」
「俺のジャージ目立つしなあ……」
「そういうんじゃねえよ」
「ん?」
首を傾げる花崎に、小林は舌打ちではなく溜息が出た。
「お前、時々……じゃねえな。お前馬鹿だよな」
「はあ!? なんだよいきなり」
「別に」
「別にって、人を馬鹿呼ばわりしといてそれかよ」
肩を落としながらも、馬鹿と言われ慣れてしまった花崎は直ぐに切り替えて海に視線を戻す。
「海は暗いけど、海面に映った月は長くて真っすぐで道みてえだな!」
暗い海において、それだけが揺らめきながらも一直線に明るく光っている。
「歩けんのか?」
「歩けないかなー」
道、と聞いて小林が問えば、花崎は残念そうに肩を竦める。
歩けたら、それこそ小林と二人でどこまで続くのか確かめに行くのに、と笑う。
「まあ、これ以上家から離れても面倒だし、座ろっか」
そう誘って、花崎はその場で腰を下ろした。
歩き回られるよりは安心できる小林もそれに倣った。
「なあ、旅行楽しかった? 来てよかった?」
二人の間にある会話は大体花崎が振った話題についてだ。
なので今回はそれということになる。
「お前と一緒なら、別にこんなとこ来なくてもいい」
けど、と小林は続ける。
「バーベキューは美味かった」
「うん」
「手で持つ花火は…意外と嫌いじゃない」
「うん、またやろうな」
「お前と一緒なら、どこに行ってもたぶん……………」
一度言葉を止め、言い辛そうに眉を寄せた後、暫しの時間をおいて小林は再度口を開く。
「…………楽しい」
「溜め過ぎだろー!」
あまりに溜めて呟かれた一言に花崎は大笑いした。
体を逸らせて笑いながら、ふと視界に入ったそれに気付く。
「見ろよ小林」
花崎は背後を指さした。
示された方を見れば、あるのは月明かりでできた影だけだ。
「なんかあるか?」
訳が分からず小林が首を傾げると、花崎の影が動いた。
小林の影と花崎の影が手を繋いだように重なる。
「影だと手が繋げる」
言った途端、小林が身をずらす。
「何で離れんの?」
折角くっついているというのに、と花崎がやや拗ねたように言えば小林は渋面になった。
「影だけくっつくとかずりーだろ」
ぶはっと花崎が吹き出す。
「ずり―って何それ」
「僕が先だ」
まだ届かないけれど、いずれ靄を制御して花崎に触れられるようになるつもりはある小林は、影とはいえ自分より先に花崎に触れるのは面白くなかった。
「でも小林、俺ら前に触ってっけど?」
「そういやそうだな」
制御して触れられるようになると思った理由はそこにある。
一度は確かに触れたのだから、不可能ではない筈なのだ。
そう考えれば、影より先に、ちゃんと自分が触っていたのだと小林は影が気にならなくなった。
「あんときも海だったなあ」
「放さなきゃよかった」
「衝撃的にしゃーねーじゃん」
むしろ生きていることが奇跡である。
モヤ様様といっても良い。
小林が靄を受け入れられた何割かはここにもある。
靄は、傷つけるだけではなく助けることにも使えるのだと自覚したからだ。
否、少年探偵団に入ってからそれは何となく分かっていた。
ただ、花崎が生き残ったことでよりそう思えるようになったのだ。
とはいえ、再び触れられなくなってしまったのだから微妙ではある。
「でもあのままならお前を捕まえておけた」
他は良いとして、花崎に触れられないのは受け入れがたい。
繋がったまま離さなければ、もしかしたら靄が花崎を拒むことはなかったかも知れないのにと思う。
ただ、一度話してしまえば再び壁になることを考えれば一生どこか一部分を密着させてなければならなくなるが。
小林的にはそれでも良いが、花崎はうっかり目を離した隙に繋いだ手からもするりと抜け出してしまいそうで、あのまま繋がっていても結局離れただろうから、やはり自分が制御した方が早いのだろうと達観した。
そんなことを小林が考えている横で、花崎は繋がっていた手を見つめる。
「そうだな……あの時小林に掴まってたおかげで俺今ここにいられんだな」
小林のお陰で助かったと改めて実感すると、少し擽ったくなる。
「あのとき、お前がいたからたぶん死ねそうで、死ぬのはただ楽になれるだけだと思ってたのに…嬉しいと思った」
力が回復してしまったのは、〝花崎と繋がったまま、花崎と一緒に死ねる〟ことへの喜びの所為だろう。
あれほど望んでいた、死。
小林にとって、死とは解放だった。
煩わしい世界で、最後に花崎とだけ繋がったまま、その他の全てから解放される。
幸せだった。
解放も、花崎と共にあれることも。
幸せで、本当にこのまま死にたいと思った。
「でも、起きた後、死ねなかったことにイラつかなかった。お前もいたから……お前も生きてんなら、まだ生きてんのも悪くないと思ったんだ」
小林の言葉に、少しだけ目を見張りながらも、花崎は表情を緩めた。
「小林の生きる理由の一つにでもなれたなら、嬉しいよ。実は俺、最初っから小林に生きたいって思わせたかったんだ」
小林が死ねる方法はきちんと探していた。
でもそれを探しながら連れ回したのは、死なせてやる為じゃない。
死ねる方法を見つけてもなお、生きたいと思える何かを見つけて欲しかったからだ。
「一つじゃない。全部だ。お前が僕の生きる意味だ」
小林の言葉に花崎が、照れたように、困ったように苦笑する。
「すっごい告白」
「本当のことしか言ってない」
もどかしいと思った。
本当のことしか言っていないのに、困ったように笑う花崎にきちんと伝わっている気がしない。
抱き寄せて、キスをして、世の中の恋人たちがするようなそれが出来るなら今すぐに実行するのに、と思いながら小林は口を開く。
「花崎」
「なに?」
「好きだ」
「へ」
「好きだ」
「う、うん」
知ってる、と花崎は頷く。
だが、足りないと小林は更に言葉を紡ぐ。
「好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ」
「ど、どうした小林!?」
続けて何度も同じ言葉を重ねられて、流石に花崎は困惑して問う。
すると小林は眉を寄せた。
「………言葉しかねーんだ」
「は?」
首を傾げる花崎に、小林は手を伸ばす。
手の位置は花崎から30㎝離れた場所。
それ以上は近づけない。
「僕がお前に届くのは、言葉しかねーんだ」
キスすることも、抱きしめることも、手を繋ぐことすら叶わない。
湧き出て溢れるばかりの想いを形にして花崎に届けられるのは、言葉だけ。
言葉すら、意味がきちんと届いているのか確認する術は無いが。
雲が差して月が隠れる。
暗くなった浜では海も見えず、花崎の姿も見えない。
先程感じたように、容易に手を伸ばして捕まえて、その存在を確認することも出来ない。
今しがた口にした言葉がまさに重く圧し掛かる。
「大丈夫だよ」
暗闇の中、波の音に交じって花崎の声が小林の耳に届く。
それだけで少し安心した。
「言葉をいっぱい貰うのも確かに嬉しいけど、それがなくてもちゃんと届いてる」
声は途切れることなく、小林の不安を理解しているような言葉になる。
「俺さ、信じんのヘタなの。自分に自信がねーから、本当に自分なんかが愛されてる事があるんだろうかって思っちゃうんだよ」
愛されていると、分っている。
でもそれを認識したら、まやかしだと知らされた時に、或いは真実であっても失った時に、絶望してしまうかも知れない。
なら、気づかないふりをしていた方がずっといい。
失ってばかりだった花崎にとって、その愛がずっと手元に残ることこそ、何よりも信じられないから。
愛されていないと思い込んでいるうちは、凍えるかもしれない現実に触れることもないから。
意識して考えているわけではないが、恐らくそうなのだろうと花崎は自覚している。
また好きになった相手に、好きになって貰いたいと思った相手に〝要らない〟と言われるのが怖いから。
「でもな、小林の言葉は信じられるんだ」
そう。小林の言葉は花崎にそんな恐怖を与えない。
不思議なほどにするりと心の中に入ってくる。
それは恐らく…。
「小林が全力で俺に好きって気持ちをくれてんのが分かるから」
失うのが怖い、なんて考える余裕もないくらいに小林が与えてくるから。
今までは誰も拒む花崎に押し付けようとはしなかった。
優しさだったのかもしれない。
壊れ物を扱うように外から柔らかく与えてくれていた。
けれど届かないまでは気にしなかった。
小林は届くまで、いや、届いても、更に愛を投げ続けていた。
そもそも届けようとなんて意識してもいないかも知れない。
ただ花崎を好きでいただけだ。
「小林の行動とか言葉とかから、ちゃんといっぱい届いてる」
だが、だからこそ花崎の心の奥まで届いた。
「俺の声、聞こえるだろ?」
「ああ」
暗闇の中、姿はまともに見えないが、きちんと届く声に小林は頷く。
「波の音も聞こえるよな?」
「ああ」
「今真っ暗で姿が見えてねーけど、見えなくてもそこにちゃんとあるって分るだろ?」
「そう…だな……」
見えなくても、触れなくても、分るものはあるのだと、花崎が言いたいのだと、小林も理解した。
「だから、小林が俺の事想ってくれてんのもちゃんとわかってる」
と、そこで何かに気付いたように花崎の声の調子が変わる。
「逆に聞くけどさ、小林の方が俺が小林のことちゃんと好きって信じてくれてる?」
「当たり前だろ」
「ホントーに―?」
念を押すように問われて、小林は少しだけ言葉に詰まる。
確かに、花崎が小林のことをそういう意味で好きだとは思っていない時期があったからだ。
それでも、花崎が小林のモノになって他の誰にも取られないなら良いと思っていた。
けれど。
「………前は信じてなかった。けど、お前僕を喜ばせようと色々してくんだろ」
「うん」
相手を喜ばせたいと思うのは、相手が好きだからだ。
自分が喜ばせられると嬉しくなるのも、相手が好きだからだ。
「僕が笑うだけで嬉しそうにすんだろ」
「うん」
「僕もお前が笑うと嬉しいから、ちゃんと同じなんだって、思う」
ただそれだけのことで嬉しくなれるのも、相手が好きだからだ。
「そっか」
小林の言葉がじわりと花崎の胸に沁み込む。
「よかった」
花崎の行動の意味はきちんと小林に伝わっていた。
小林が信じてくれていた。
花崎が安心したように呟いたところで、月が姿を見せる。
花崎は笑っていた。
だから小林も笑う。
そんな小林を見て、花崎は更に笑みを深めた。
が、次の瞬間悪戯心を抱いたような顔をして少しだけ体を動かした。
花崎の影がこっそりと小林の影にキスをする。
「何やってんだ」
花崎の謎の動きに小林は首を傾げる。
花崎本体を見ていたので影の動きには気づいていない。
「何でもねーって」
影が手を繋ぐのすら狡いと言った小林だ。
バレたら拗ねてしまうかも知れないので、花崎は笑って誤魔化すように立ち上がる。
「そろそろ帰ろうぜ」
「………分かった」
釈然としないながらも、小林は頷いて立ち上がった。