小林に花崎の首筋に噛みつかせたかったので吸血鬼になりました。
街灯の明かりも届きにくい裏道を歩く。
フードを目深にかぶった小柄な人物が、苦しそうに胸を押さえながらふらふらと。
普通の道ならその苦しそうな様子に、誰かが声を掛けるなり救急車を呼ぶなりするのかもしれないが、散らばるゴミすら放置された裏道ではただの不審人物でしかない。
時折行違う人間もいるが、見て見ぬふりをして通り過ぎる。
小柄に見えるが、酔っ払いかも知れない。
もしかしたらクスリをやっている可能性もある。
下手に近づいては何かしらの被害に遭うかも知れないからだ。
そんなことは分かっている。
だからこの道を選んだのだ。
誰にも近づかれないように。
そして更に誰もいない場所を目指す。
バリケードが張られた廃ビル。
不審人物が少なくはないこの場所で、廃ビルは警察がよく確認に来る為、意外と人が来ることはない。
しかし警察は来るものの、騒ぎや痕跡がなければそこまできちんと確認されないことも知っていた。
だから普段は上の階にいる。
階数が上がれば上がるほど警察もその他も来ることが減っていく。
けれど、今は限界だった。
ビルに入ってすぐのところで喉を押さえ座り込む。
「なん……だよ、これ……」
立っていられない程の眩暈に、喉が張り付きそうな乾き。
原因は分かっている。
過去に何度も経験した。
けれど、今までこれほどの症状に見舞われたことはなかった。
いつもは放置すればそのうち治まる程度のものだった。
だというのに、悪化する一方だ。
今、人間に遭うわけにはいかないと、何とか上に行かねばと思う。
が、全く力が入らない。
「大丈夫か?」
酷く場違いな――苦しそうな人間が状況としては正しいのかもしれないが――声が響いた。
驚いて振り返る気力も無く目線だけ動かせば、相手が近づいてきた。
目の前にしゃがみこんで顔を覗くのは、まだ少年と言える年頃の男だった。
「救急車とか、呼ぶ?」
少年は心配そうな表情と声音で問う。
しかしそれは、望まれているものではない。
「か……まうな……」
何とか絞り出すように告げるが、相手は去らない。
「でも……」
「どっか、いけ!」
おせっかいなのか何なのか知らないが、今の状況で誰かが間近にいるほど危険なものもない。
突き飛ばすように少年を片手で押せば、逆に倒れてしまった。
「大丈夫か!?」
「近づくな!!」
そう警告したというのに、おせっかいな少年は慌てたように手を伸ばしてくる。
抱き起そうとしているのか、先程より近い位置。
鼻腔を擽られた。
その瞬間、思考が真っ白になった。
「え!? ……いっ」
少年から驚きの声が上がった。
だが気にする余裕はなかった。
のどの渇きどころか、全身が満たされた気がした。
少年の声がまた聞こえた気がした。
したが、どうでもよかった。
意識がはっきりした時にはすべてが終わっていた。
「だから……」
震えるように唇を開く。
相手の肩を掴んでいた手を押して、僅かばかりの距離を取る。
「近づくなって言っただろ!!」
そして、ぼんやりとしている少年を見下ろして怒りも顕わにそう叫んだ。
「えーと……」
事態が飲み込めていないのと、他の要因で思考が纏まらないらしい少年は首を傾げる。
「お前のせいで今までずっと我慢してきたのに全部無駄になっただろ!!」
「ごめん?」
何故こんなにも怒られているのかが分からずやはり首を傾げながらも、謝罪を口にする。
「ごめんじゃねーよ! 殺せ! 今すぐ僕を殺せ!!」
「は?」
流石にぼやけた頭でも、とんでもない言葉だと思った。
「一度でも他人の血を飲んだら、成人しちまうんだよ!!」
「えーと?」
しかしやはり言われている言葉が分からない。
目の前の、少年の肩を掴んだまま怒っている存在は、少年と然程年が変わらないようにしか見えないからだ。
つまり、成人年齢にはまだ足りない。
もしかしたら酷く童顔なのだろうか、等と少年はやはりどこか夢うつつで考えた。
それにしても、血、とは穏やかではない。
しかしまだ意識がはっきりしない為、先程首筋に噛みつかれた少年は、そこで漸くあれは血を飲むための行為だったのかと思い至った。
「簡単に死ねねーのに、人間の血がねーと生きていけなくなる……らしい」
「生きていけないなら死ぬんじゃ?」
実に矛盾ではないか、と思い、再び首を傾げる。
「……さっきみたいに、何も考えられなくなんだよ」
そういえば、近づくなと叫んでいたのに突然噛みついてきたかと思えば怒鳴られたなと、少年は思い返す。
「つまり、無差別に襲っちゃうと?」
「そうらしい」
らしい、と言うのは血を飲むのが初めての経験で、まだそうなったことがないからだ。
先程のがそれなら、きっとそうなるだろうということは容易に想像できるが。
そんなことは絶対にしたくない。
かといって安全で穏やかな血液接種などそう簡単にできる筈もない。
自分で考えることもなく、本能だけで人間を襲い食い散らす化け物になるくらいなら死んだ方がマシだと思った。
直ぐにでも死ぬ方法を考えなければ。
「じゃあさ、俺と取引しない?」
「あ?」
そんなことを考えていたはずなのに、予想外の言葉が投げられて呆然とした。
何故ここで取引という言葉が出てくるのかがさっぱり理解できなかったのだ。
「お前が俺に力貸してくれんなら、代わりに俺の血飲ませてやるよ」
しかし、取引内容は今まさに抱えていた懸念を払拭するものであった。
「はあ!?」
が、そんな提案をしてこよう人間がいるとは思っていなかったので、すぐには理解できなかった。
「お前、まだぼけてんのか?」
「んー、まだちょっとぼんやりしてる気はすっけど、思考はもう割と正常」
「正常なやつが、血をやるとかいうか?」
「え、だってそーしたらお前は無差別に人を襲わなくて済むし、俺は仲間が増える。いいことづくめじゃん。血を飲むってことは吸血鬼の扱いでいいのかな? 吸血鬼ってなんか強そうだし簡単に死ねないところも魅力的だよな。俺の仕事危険なこともあるし。危ないからダメって言われることの方が多いけど」
うんうん、と自らの言葉に納得するように楽しそうに頷く少年に、呆れた視線が向けられる。
「怖くねーのか?」
「さっきのはちょっとチクッと痛かったけど、何か嫌だとは思わなかったし。体熱くなるし力入らなくてぼーっとしたけど」
「そりゃあれだろ、暴れて逃げられないように噛んだ時にそういう効果がある……らしい」
騒がれないように意識を混濁させ、血の巡りが良くなるように体温を上昇させ、抵抗されないように体に力が入らないようにする、という効果だ。
これも知識として知っているだけの情報だった。
「蜘蛛とか蜂とかが獲物に逃げられないように毒を入れるみたいな感じ?」
「………まあ、たぶん」
虫に例えられるのは些か…どころではなく不満であったが、分りやす説明としてはそれなのだろうと渋々頷いて見せた。
そこで初めて少年が困ったように眉を寄せた。
「毒なの? 今後体に影響がでるとなると流石に困るんだけど」
「毒じゃねーだろ。暫くすれば特に体に異常は起こらないらしいし。健康で逃がした方が再利用できるしな」
毒ではなく、健康に影響もない、と聞かされ少年は顔を明るくした。
「おお! キャッチアンドリリースだな! リサイクルは大事だよな! 使い捨てだと次を探すの大変そうだし!!」
再利用、とは人間に使うことはまずない筈の言葉であろうに、少年は納得したように明るく笑う。
こいつは……馬鹿だ。
と、結論付けられた。
お互い名乗りあい、吸血鬼は小林、少年は花崎、という名を持つことを告げた。
初めての吸血鬼に興味津々で花崎は小林に質問を重ねる。
今まで山に籠っていたので人間社会には疎いこと、その山が発電設備の為に開発され住んでいられなくなったこと、吸血鬼が世の中そういる訳でもないので実は吸血鬼の常識についても分かっていない事。
しかし、簡単に死ねないというだけあって実は太陽の光でも灰になって死んだりしない事。
蝙蝠に変身したりはできないが、浮いたりすることはできるので落下しても危険はないこと。
多少空気を操る特殊な能力が使えること。
普段警察などに見つかりそうなときはこれを使って隠れたりしていたということ。
等を聞き出した。
想像していた以上のハイスペックに花崎は驚きと喜びの声をあげ、今度見せて欲しいとせがんだ。
面倒臭そうな素振りを見せながらも、そのうち、と小林が返したので花崎は満足してあっさり引き下がった。
「そういやさ、どれくらいの頻度で血っているもんなの?」
そしてふと思い出したように再び質問を重ねてくる。
「知らねーよ。飲んだのは初めてなんだ」
一度でも血を飲むと、完全な吸血鬼になる。
と言うのだけは知っていた。
今までは山にいたので人に近づくこともめったになかったのだが、普段は血ではなく普通に人間と同じように飲食する為、山と違って人里は盗みを働かなければ簡単に食べ物が手に入らない。
その為、廃棄や炊き出しなどがある東京という場所を選んだが、人が多すぎた。
つまり、吸血鬼としての食事もいたるところに並べられているようなものであり、衝動が襲ってきたときに耐えるのが難しくなっていたのだ。
それでも何とか耐えようとしていたというのに、花崎が不用意に近づいたため今の事態となる。
相手が恐れることもなく話の通じる花崎であったのは僥倖であったが。
「そっかー」
これから確認していくしかねーかと苦笑しながら、噛まれた首筋に花崎は手を当てる。
そこには痕はあるものの、花崎が触れて感じる傷は存在しない。
「吸血鬼って、なんか首筋から血を取るイメージあんだけど何でなの?」
何で、と言われても小林は理由を知らない。
自分の行動の理由をあげるとしたら、いくつか思い当たる部分はあるが。
「口に近くてそこだけ剥き出しだからだろ。顔は噛みにくいし鼻はあんまり血が出なさそうだし、頭は毛があるし」
「露出してる部分ていうなら、じゃあ指とかでもいいの?」
花崎が人差し指を立てて見せれば、小林は顔を顰めた。
「僕がお前の指をしゃぶるのか? どんだけ時間がかかるんだ?」
「………微妙だな」
言われて花崎は長い時間小林に指をしゃぶられ続ける光景を想像して、眉間に皺をよせ首を振る。
「手首とかならいけんじゃねーの?」
指の下、手首の辺りを見て小林が言えば、花崎は慌てたように手を引いて首を振る。
「手首に傷とか余計な心配されそうだから駄目! そうかー痕が残ること考えると見えない部分が良いのか……お腹の辺りとか……血がいっぱい流れてるって言うなら足のリンパ節とか……あ、駄目だ。首筋に噛みつかれるよりなんか駄目だ」
「痕っつってもさっき噛みついた痕もそんなに残ってねーから、たぶんそこまで残んねーんじゃねーの?」
花崎の首筋には虫に刺されたような跡が残るものの、傷と言う程のものではない。
手首についても心配されるようなものではないと思う、と言うのが小林の見解だ。
「そっかー……だとしたら腕……あ、痕は残るんじゃダメか。腕とかだと注射っぽいし、クスリやってると思われてやっぱり変に心配されても困るし」
うーん、と呻りながら花崎は腕を組んで悩む。
が、すぐ後にパッと顔をあげた。
「そーだなー傷が残んねーなら、やっぱ首っつーか肩っつーか、まあその辺りでいいや! 吸血鬼っぽいし!!」
最終的に〝吸血鬼っぽい〟という理由だけで花崎は場所を決めた。
先程の悩みは何だったのだと思いながらも、小林はきちんと約束通り血を提供してもらえるなら異存はなかった。