別れる直前、花崎が思い出したように小林を振り返る。
「そういや明日事務所にいけねーんだった! 夜電話すっから」
花崎の言葉に小林は首を傾げる。
信じると約束したから、駄目だとは言わない。
心情的には毎日でも会いたいのだが。
小指には小林が渡した指輪が光る。
花崎が小林のモノである証。
それを見て、少し心を落ち着かせる。
「何で夜なんだ?」
だが、別に朝晩でも構わないだろう。
何なら朝昼晩でも良い。
「朝から準備したり何したりで忙しいんだよ」
「ふーん」
忙しいなら、仕方ない。
仕方ないが……。
面白くはない。
それでも何とか小林は不満を飲み込んだ。
相手を信じて許すことが出来るのが恋人だと、花崎と付き合うにあたる経緯で井上に教え込まれたからだ。
恋人なのだから花崎を信じて、その行動を阻害したりはしない。
つもりだ。いちおう。極力。できるだけ。
「なら夜はちゃんと連絡寄こせよ」
「うん。てかいつもしてんじゃん」
「それでもだ!」
語気を強めて言えば苦笑されたが、花崎が頷いたのを確認して小林は背を向けて歩き出した。
「まったなー!」
背中に受けた花崎の声に手だけ軽く上げて応えた。
年末年始を迎え、企業等では忘年会を兼ねたパーティなども増える。
花崎グループと懇意にしているグループのパーティ。
跡取り云々は別としても花崎家の息子である以上、出席は義務だ。
まずは主催、それから知人に挨拶する父について花崎も挨拶を済ませる。
花崎グループの会長ともなれば、当然知り合いも多く、そうでなくても挨拶に来る人間も多い。
そして挨拶が一言で済むとも限らない。
精々数十人規模のそれ程盛大なパーティではないのに、挨拶を終わらせるだけでも2時間近くかかった。
時々喉を潤してはいるが、折角用意されている食事に手を付ける時間もない。
折角のおいしそうな料理を前に、残念ながら不思議なほどに食欲もわかないのだが。
そうして主要な挨拶を終えて、花崎は思わず小さく息を吐いた。
それを見たのか、あるいは元からその予定だったのか、雄一郎は苦笑を浮かべて花崎の肩を抱く。
「健介、慣れない場で疲れただろう? 私はあちらで知り合いの方々と話してくるから後は好きに過ごして良い。帰るときには連絡を入れるから、控室で休憩を取らせてもらうのもありだろう」
そう言ってその抱いた腕を押すように花崎をドアの方へと促した。
雄一郎自身はソファ席のある一角に向かっていく。
先に帰っていい、と言わないのは退席時の挨拶にもう一度駆り出されるからだ。
しかしそれまでは自由にしていいという雄一郎の気遣いを花崎はありがたく受け取ることにする。
名だたる著名人も少なからずいる中、それでも雄一郎は目立つ。
更にその息子である花崎も注目を受けている。
その視線に籠る多くの意思は、値踏みだ。
養子である、花崎家の跡取りと目される人物。
〝あの事件の花崎晴彦〟が同じように引き取られていた人物であったことは周知の事実だ。
特に晴彦は中学生の時点で既に雄一郎の手伝いを始めていた。
直接知っている人物もいるだろう。
つまり、雄一郎に認められたからといって真面目で品行方正とは限らない。
いや、そうであったはずの人間でも間違いを犯す。
養子だというだけで見下す人間もいる中、失態を犯せば嘲笑の的だ。
花崎グループの未来にも宜しくない影響を与え兼ねない。
とはいえ、今のところ滅多に表に出てこなかった花崎の大きな失態はル・ワッカの事件であり、しかしそれは世間的には二十面相が全面的に悪いことになっているので、哀れな被害者である花崎をその件で追い詰めるような安易な真似をする人間はそうはいない。
まあ、花崎が人質になったことで少なくない被害を受けたのも確かなのでその点を責める者もいるが、世の中は弱者に甘い。
正確には目に見えて弱者を叩こうとする者に厳しい。
警察すらも手玉に取る二十面相にいち中学生でしかなかった花崎がどうにか出来ると思う者の方が少ない。
そんな被害者である花崎に事件を思い出させるように責めるのは周囲の反感を買いかねない。
結局、人々のいる場所でそんな行為に踏み切る人間はこの場にはいない。
女性陣に至ってはまた別の視線が混ざる。
生まれで忌避する人間がいる一方、花崎家の後継ぎというフィルターで見る者やその容姿に惹かれる者もいる。
鍛え抜かれた花崎の体は細身でありながらスタイルも姿勢も良い。
長年育ってきた花崎家という環境のお陰で、動きには品もある。
勝田や井上、大友など容姿がよく分かりやすくモテていたメンバーを目にしてきた所為で当人は気づいていないが顔立ちも良い。
花崎家の一員に、失態がない以上下手に喧嘩を売ることも出来ず、女性陣は思惑やその他の感情でけん制しあった結果、花崎は遠目に窺われているだけである。
しかし直接何かされないとはいえ、そんな視線にさらされていて気分が良い筈が無い。
雄一郎に言われた通り、一度部屋から出てスタッフに声を掛ける。
果敢にも付いてこようとした数人の女性はいたものの、雄一郎との会話を知らないのでスタッフに案内されている先が誰かとの待ち合わせかも知れないと引き留めることも出来なかった。
一人で部屋に入り、バルコニーに出れば旧華族縁の建物は庭も広く、美しく落ち着いた造形を見せている。
イルミネーションのようなきらめきは無いが、電球色で照らされたそれは心も少し落ち着かせてくれる。
花崎が現在いるのは二階だが一階からはそのまま庭に出ることも可能だ。
しかし12月初頭ともなれば冬も深まっている為パーティ衣装のような薄着で庭に出る者はいない。
誰もいない静かな光景に漸く胸につかえていた息を吐きだした。
息が白くなる。
上着がないと流石に少し寒いが、息の詰まるあの空間より増しだ。
心情としては晴彦に戻ってきて花崎家を継いでほしいが、明確な攻撃ポイントがある晴彦があの空間で針の筵に座らされることを考えれば今日同行者に選ばれたのが自分で良かったとも思う。
「慣れなきゃなー……」
もし晴彦が継いでくれるのだとしたら、花崎は矢面に出る覚悟はしている。
大もとを正せば、晴彦が花崎の為に家を出たことが原因なのだから、せめてそれくらいはさせて欲しいと考えている。
万が一に自分が継ぐことになったとしても、やはりあの裏表の激しい世界に慣れる必要がある。
「小林に会いてーなー……」
あの裏表のない強く真っ直ぐな存在に。
あんなに自分の意志に歪みがない小林が自分を好きだと言ってくれるから、傍にいてくれるから、どんな場所でも花崎も膝を付かずに立ち続けていられる。
小林が好きになった相手が駄目なだけの存在であることに、花崎が納得できないからだ。
携帯を取り出す。
履歴はほぼ小林で埋まっている。
バイブレーションすら切ってしまっていた為気付かなかったが、今日のモノもある。
メールも伝言も入っていないところを見ると急ぎではないのだろう。
花崎は苦笑する。
夜に電話すると言ったのに、待てなかったのだろうか。
花崎だって、今すぐこの名前に触れて電話してしまいたい。
けれど。
「これは終わった後のごほーび!」
一日頑張り抜いた御褒美に小林との会話という癒しが待っていると思えば、もう暫く頑張れる。
幸い、あとは父に呼ばれた後に最後のあいさつ回りをして帰るだけだ。
そろそろ寒くなってきたので部屋に戻ろうとしたら、ドアが開く音がした。
別に花崎専用の控室ではないので、疲れた誰かが戻ってきたのだろうと部屋を覗けば、あまり話したくない部類の存在がそこにいた。
寒いが、彼らと人目のない場所で顔を合わせるよりはずっと増しだと花崎はバルコニーに留まることにした。
部屋より外が暗いことと、壁や柱で死角になる部分があるおかげで、彼らが出てこなければ見つかることは恐らくない。
『花崎家はやっぱりあっちを出してきたかー』
『そりゃニュースになった犯罪者なんて跡取りにしないだろ』
『実際の所、名前だけは花崎のままだけど8年以上前に出奔しているらしいからな。生まれだけじゃなくて育ちも悪いとなれば出せないだろ』
聞こえてきた声。
晴彦のことを悪く言っているのが分かる。
けれど、花崎は拳を握って耐えた。
今すぐ部屋に入って文句を付けるのは簡単だ。
けれど、それをすれば〝やはり野蛮だ〟というレッテルを張られてしまう。
聞いた話でしか晴彦のことを知らない相手に、そう確信させるような証拠を提供するわけにはいかない。
何とか落ち着こうと、目を閉じて一度息を吐きだす。
それから顔を上げる勢いのまま天を仰げば、明るすぎないライトアップのお陰で星もしっかりと見える。
「星がきれーだなー……」
バルコニーの柵に凭れて更に広い範囲の空を見渡す。
そうするとやはりまた小林を思い出す。
綺麗なものを見るなら、小林と一緒に見たい。
小林は青空が好きだけれど、きっとこの星空だって好きになってくれると思うのだ。
何で小林と離れて、こんな場所で嫌な話を聞かなければならないのか。
仕方ないと分かってる。
でも…。
「花崎」
「へ?」
一瞬小林の声が聞こえた。
あまりに思い過ぎて幻聴が聞こえたのかと思ったが、幻聴とはこんなにはっきり聞こえるものだろうかと花崎は思わず周囲を見回す。
バルコニーから見下ろす位置。
そこに白い頭が見える。
「こ、小林?」
そうだ、とも何とも言わないが、その態度と花崎を見上げた顔が間違いなく小林であることを物語っている。
「何でここに!?」
思わず叫びそうになった声を押さえて問えば、不機嫌な顔で返される。
「お前が電話寄こすっつってたのに寄こさねーからだろ」
「夜にって言ったじゃん」
「もう夜だ」
確かに時間を指定していなかったので、暗くなった時点で夜といえなくもない。
「や、そうだけど!」
いくら声を押さえていても、バルコニーと庭のやり取りができる声量だ。
室内の会話が止まった。
『誰かバルコニーにいるのか?』
自分たちが花崎家の悪口を声高に言っていたのを聞かれたら不味いと思ったのだろう。
主催は雄一郎にも花崎にも好意的だ。
焦るくらいならこんなところで言わなければいいのに、と思わなくもないが、彼ら以上に花崎が今焦っていた。
別に見られて困ることはない。
花崎家を悪く言っていた人間が花崎家の人間に見つかるだけなのだから、相手の方が困る筈だ。
花崎だけだと知れれば絡まれる可能性もあるが、花崎グループを敵に回したい存在は今回のパーティにはいないはずなので、そこまで下手は打たないであろうとは思われる。
故に、相手の方が気まずい筈だ。
否。やはり花崎の方が困る。
うっかり小林が見つかると非常に困る。
かといって状況が分かってない小林がうまく隠れられるとも思わない。
「小林! どけ!!」
いうや否や、花崎は手すりをひらりと飛び越えた。
その程度の花崎の行動で驚く小林でもない。
素直に小林が避けた場所に危なげなく着地すると、すぐに身を翻した。
「こっち! 静かにな!」
小さく声をあげながら小林をバルコニーから見えない位置へ誘導する。
『気のせいか?』
そんな声が聞こえた。
『寒いから早く閉めろって』
続いた声と窓が閉まる音に、花崎はホッと息を吐いて肩の力を抜いた。
「庭に行こう」
もしやはりきちんと確認しよう、等と考えられて覗き込まれたら見つかってしまう。
庭なら植木や噴水など建物の中からは見えにくい部分が多々ある。
庭を指で示す花崎に、しかし小林は足を止めたまま上半身だけ動かす。
「その前に着ろ」
花崎が僅かに振るえているのを見落とす小林ではない。
直ぐに上着を投げた。
「サンキュー」
本当に体が冷え切っていた花崎は即座に着込んだ。
「マジあったけー!!」
「もうあの顔しねーのか」
「毎回照れてられっかっての!」
指摘されて気恥しくなってしまったので、慌てて背を向けて小林を誘導する。
館からそれ程離れない位置に良い隠れ場所を見つけたので木に隠れるように腰を下ろす。
「どうやって入ったの?」
要人の多いパーティー会場である。
当然警備もしっかりしている。
「道具だ」
「どんな?」
「前にお前と解決した事件があっただろ」
小林の言葉に花崎が首を傾げる。
「どれ?」
選択肢が多すぎた為だ。
「透明人間とか言う奴がいたやつだ」
「あー! 光学迷彩!!」
「試作品だって、今日アイツが持ってきた」
相変わらず小林は花崎以外を代名詞で呼ぶ。
他に時折代名詞じゃないのは明智だが、認識の差が何処にあるのか今のところ不明だ。
なので花崎は会話の流れから誰かを導き出すしかないが、今回は分かりやすかった。
「大友かー! 相変わらずスゲーなー!!」
しかし、光学迷彩を使用すれば簡単に侵入できるというのはかなり危険だ。
ホテルなどはあの事件以来熱感知センサーなども取り付けているらしいが、通常こういう貸し切りすら滅多にできないこの建物にはそこまでの警備システムは組まれていなかった。
「問題点が浮き彫りかー……」
とはいえ、よく考えれば花崎家も業者に成りすましたヒデちゃんの侵入を許してしまっているので、日々進化する中で完全な警備はやはり難しいのかもしれない。
「お前はあんなところで何してたんだ?」
「俺? 暇潰しかなー?」
「暇なら早く帰って来いよ」
「暇の後にまたやらなきゃいけない事があんの」
「そうなのか」
「そうなんだよ」
花崎が肩を竦めたところで、腹の虫が鳴く。
「腹減ったなあ……」
あの息苦しい空間から解放され、小林といたことで空腹を思い出してしまった。
「ポケットに入ってるやつやるから食え」
小林に言われて、上着のポケットに手を突っ込めば、直ぐにポケットに入れるには少し大きめの紙袋が手にあたる。
引っ張り出せばたい焼きだった。
冷めているそれが、2匹入っている。
「いいの?」
思ったより大物に、花崎は思わず問いかけてしまう。
小林はしっかりと頷いた。
「なんか、冷めてもうまいんだと」
「へー! あ、これ東京3大たい焼きの店のじゃん」
この手の情報は野呂がいれば欠かすことはない。
「腹減ってんなら…全部食っても良い……」
本当は、凄く興味があるし食べたいとも思うが、花崎が腹を空かせているという。
今小林は持っていたたい焼きを食べなかった程度には空腹ではない。
なので興味を押し殺して何とかそう告げたら、花崎が吹き出すように笑った。
「んな心底苦しそうな顔で言わなくても、一個で十分だって」
「なら一個寄こせ」
「小林も今食うの?」
残念ながら直接手渡せないので、袋に入っているしということで地面に置く。
それを小林は直ぐに拾い上げて紙を開けた。
「ん。元々お前と食おうと思ってたやつだからな。お前が全部食べないなら今一緒に食う」
「俺と?」
「お前と食った方が美味い気がすんだ」
そう言って小林はたい焼きに嚙り付いた。
「そっか」
花崎も嚙り付く。
花崎が上着を借りるまで小林エリアにあった為、思ったほどは冷えていない。
人肌程度のそれ。
恐らくもっと温かい方が美味しいだろう。
しかし空腹に加えて二人で食べているというのが何よりのスパイスだ。
「んまいな」
「まあな」
「今度焼きたて食べに行こうぜ。熱々でもっと美味いと思う」
「ああ」
小林は一気に口に放り込んで租借しながら頷いた。
小林らしい豪快な食べ方に、思わず笑みが漏れる。
もっと見たくて思わずこれも半分やろうかといいたくなるが、小林がくれたものである。
それを返すのもおかしなことだと思い、花崎も急いで食べ終わらせることにした。
少々飲み物が欲しくなったが、小腹が満たされて満足する。
「今日つまんなかったけど、小林に会ったら楽しくなった」
それだけで、面倒なことの方が多かった今日一日が良い日であったような気がしてしまう。
不思議な現象だと思いながらも、別に悪いことでもないからいいやと花崎は思う。
「……ならずっと一緒にいてやるよ。そうすりゃお前笑ってられんだろ」
小林の言葉に目を瞬かせた後、花崎は頷く。
「そうだな。うん、きっと小林がいれば笑ってられるな」
「僕がいないとお前泣くしな」
「そりゃ小林がいなくなったら泣くだろうけど、別に小林がいつも一緒にいないからって泣かねーよ?」
だとしたらいったいどれほどの時間泣かなければならないと言うのか。
つまらないし会いたいとは思うが、別に泣きはしない。
それなのに小林の言い方では、小林が離れただけで花崎が泣くようではないかと不満になる。
「嘘つけ」
が、即座に否定されてしまった。
小林の言葉は、少なくとも当人の中で根拠がある。
「なんかそう確信されるような事したっけ?」
泣き虫と思われているとは思いたくない。
「前に泣いたし泣かされただろ」
前に、と考えて思い出すのはまだ明智が行方不明になる前だ。
花崎が引き起こしたあの事件から先。
「そういやあんとき、小林初めて俺のこと名前で呼んでくれたんだよな!」
あの時は気付かなかったが、思い返せばあの時から小林は花崎を花崎と呼ぶようになった。
「そこかよ」
小林としては花崎があんな風に泣くことを知ってしまった衝撃的事件だったというのに、花崎はそれよりも名前を呼ぶ程度のことが大事かのように言うので、呆れてしまう。
「今は、な! 小林のおかげで」
全く引きずるものがないとは言えない。
というより、引きずっているものの方が多い。
今でもあの事件は重く圧し掛かる。
それでも、小林のことだけを考えた時、あの出来事も少しだけ違った表情を見せる。
二十面相が相手だから、明智がは動くだろうと思っていたが、だからこそ、その明智に止められて少年探偵団は誰も自分の為になんか動かないと思っていた。
それに花崎は休団中であった上に、あんな出て行き方までしてしまった。
八つ当たりして暴言を吐いて、喚いて逃げた。
それなのにまさか全員で乗り込んでくるとは思わなかった。
自分で受け入れた約束事はきちんと守る小林なら、自分が死ねないなら関係ないと、明智探偵事務所の取り決めに従って絶対に来ないと思っていた。
特に、あんなことを言ってしまった花崎の為に等動く筈がないと。
けれど、来てくれた。
何も考えてなかったからなのかも知れないが、探偵団の中で真っ先に。
走って、探して、見つけて、連れて帰ろうとしてくれた。
それなのに二十面相が提示した〝責任を取りながら逃げる方法〟に縋ろうとして身を投げた花崎に、更に追ってきてくれた。
手を伸ばしてくれた。
あの時は何を思ったのか。
何も考えていなかったのか。
花崎も伸ばし返して、ほんの一瞬。
触れたのか弾かれただけなのか分からない程の瞬間の出来事。
でも、触れた気がしたのだ。
もっとしっかり握れたのは成層圏プレーンからの落下の時だったが。
ちなみに、触れる条件に〝落ちる〟があるかもしれないから試してみようかと提案したときには「お前は普通に危ないだろ、馬鹿か」と至極まともな意見を小林から受けてしまった。
花崎としてはスカイダイビングのつもりであったのだが、高所から飛び降りることに抵抗のない所為かその辺りは信用されていない。
確かに触れなければ、小林の靄でパラシュートが破損したり花崎が何らかの危険になる可能性がないとは言えなかったが。
結局それは試していない。
なのであれ以来触れられたことはない。
それでも、小林はあの頃からずっと変わらず手を伸ばして追いかけてきてくれる。
触れないけれど、小林の手は花崎に届く。
「もう僕から逃げんなよ」
自分で話を振った癖に、嫌なことを思い出した、というような顔で小林が言う。
「逃げねーって。小林がいないと俺泣くんだろ?」
悪戯っぽく笑って花崎は答える。
「僕はお前を泣かせたりしない。ずっと一緒にいる。だからお前も僕の傍にいろ。ずっとだぞ」
少なくとも、誘拐された時やその後のらしくない顔や、小林が撃たれたときのような顔をさせるつもりはない。
全部小林が離れている間に原因があった。
だから一緒にいればその原因だって取り除けると小林は思っている。
「うわー! そんな台詞まじで聞くとは思わなかった! 小林かーっこいー!」
ドラマなどの物語でなら多く出ていそうだが、現実で言う人間は少ないであろう言葉を真面目に言われて、花崎はついそんな声をあげてしまう。
格好良いと思ったのは本当だが。
しかしその態度で小林が素直に受け取れるはずもない。
「本当だからな」
ややムスッとした表情で、小林はもう一度念を押した。
花崎は意外と涙腺が緩いので泣かせないとは言えないが、小林が泣かせることはしないつもりだ。
もう「死にたい」とも「殺せ」とも口にはしない。
自分が傷つくことで傷つく花崎を見るつもりもない。
この身をもって花崎を守れるなら別に傷ついたってかまわないのだが、花崎が嫌がるのでするつもりもない。
「疑ってねーって」
その言葉を肯定するように花崎は嬉しそうに笑った。
寄りかかるだけの存在にはなりたくないのでそこは何とかするにしても、少なくとも今既に重いかもしれない花崎でも小林は好きでいてくれるのだから、重さはこの際気にしないでおくことにした。
花崎は忘れていた。
付き合うまでの間に、いかに小林が花崎に存在全てで依存しているのを実感した筈なのにすっかりと。
どれ程重くなってもその上に小林がいるのだから小林が重いと思う日が来るはずももない。
その後、他愛ない雑談をしていると花崎の携帯が震える。
「あ、父さんからの連絡だ」
あれほど面倒で長いと感じていた筈の時間が小林と一緒だとあっという間に過ぎてしまった。
「戻らねーと……」
そう言ってバルコニーを木の影から覗き見た。
「昇んのか?」
同じように小林もバルコニーをに視線を送る。
何時ものことを考えると高さ的には全く問題を感じない。
「それでも良いけど、どうしよっかな?」
もし彼らがまだ部屋にいた場合、誰もいなかった筈のバルコニーからの花崎の登場にそれは驚いてくれるだろう。
少し見たい気もするが、うっかり登っている状況で誰かに見つかったら花崎にマイナスがついてしまう。
それに一応文化財だ。
下手に傷をつけるのもよろしくない。
出ていく人間を見落としたと思わせるのは申し訳ないが、ここはやはり入り口から入る方が良いのかもしれない。
寒いため庭に出る者は皆無とは言え、元々出られる仕様になっているのだ。
恐らく問題はないだろう。
出来ればこっそり戻りたいが。
「小林、光学迷彩の道具いくつ持ってる?」
「一個だけだ」
「じゃ―やっぱりこっそりも難しいかー……」
花崎は諦めることにした。
「んじゃま戻りますか!」
そう言って立ち上がり、小林を振り返りふと気づく。
「小林は見つからねーようにちゃんと光学迷彩起動して出るんだぞ……って、そういや小林どうやってここまで来たの?」
「だからアイツの発明で……」
「そっちじゃなくて、距離」
事務所からはそれなりの距離がある。
歩くのが無理ということも無いが、それでも遠いものは遠い。
時間単位で歩く必要がある。
「近くでなんか依頼品の受け渡しがあるんだと」
「じゃあ井上の車? 帰りも一緒?」
花崎が問えば、小林は頷いた。
「終わったら連絡寄こすって言われた」
「なら大丈夫か」
もし歩いて帰ると言い出したら流石に父に話して同行の許可を得ようかと考えたが、不要だったようだ。
もう少し一緒にいられたと考えれば残念だが、小林の不法侵入を考えるとばれない方がよいだろう。
「気を付けてな! 明日は事務所行くから」
そう言って、花崎は小林のコートを脱いで返す。
「ああ……」
受け取って着ながら、小林は少し躊躇うように口を動かした。
「どした?」
花崎が首を傾げれば、意を決したように小林が視線を合わせる。
そしてまたすぐに逸らした。
「また明日な」
最後に小さな声でそう付け加える。
ほんの少し先の未来であっても、そこに約束があることを花崎は喜ぶ。
小林は照れ臭いのか「絶対来いよ」などの念押しはともかくとして、あまり挨拶を口にすることはないが、時々こうして頑張りを見せる。
花崎が先程つまらなかった、といっていたので励ましのつもりなのかもしれない。
「おう!」
おかげで、花崎は嫌なことがあったのも忘れて意気揚々と建物へ戻っていった。
それを見送って、小林は帽子型になっている装置を被り起動させる。
どうせ見えないなら、花崎について行っても良いのではないか、と思わなくもない。
けれど当の花崎にも見えないのだ。
うっかり近付き過ぎないように距離を取ることを考えれば、大人しく引き下がった方が良いだろう。
もし何かあれば、井上が煩くなるに決まっている。
お小言で花崎との時間を潰されたら敵わない。
門を出てあらかじめ指定されていた場所で光学迷彩を解く。
「あ。コバちんえっらーい! 花崎のところに残りたいとか駄々こねってって帰ってこないかもーって」
そこで待機していたピッポが目ざとく見つけ、野呂が即座に反応する。
「んな訳ねーだろ」
花崎と一緒にいる為には追いかけ続けないといけないのは確かだが、それでも自分を押し付けるだけではいけないのだ。
花崎に必要なら、一歩くらいなら引き下がるくらいの譲歩は小林にだってある。
それに、明日会う約束もしたのだ。
だから大丈夫、と思ったところでふと気づいた。
「明日にすんじゃなかった……」
これでは花崎が帰った後、電話が来ない。
本当に明日になるまで我慢である。
約束は難しい。
しかし、花崎は喜んだし、直接会えたのだから差し引きプラスである。
今日はもう帰ったら寝てしまおうと決めた。
「あいつはまだか?」
「井上なら今こっちに向かってってるよー。あと5、6分てとこ。コバちんナイスタイミング」
問えば、すぐにそんな返事が返された。
ならば待つか、と塀に背を預け空を見上げる。
そういえば会った時花崎は空を見上げていたなと思い出した。
花崎が何を思ってみていたのかは分からない。
今度二人で見ながら話を聞くのも良いかと思った。
記憶していたのが
「パーティから抜け出す」「テラスから飛び降りる」
だったのでそのシーンだけは忘れずに盛り込んだつもりです。
何で小林が会いに来るのか、状況が作れなかったので
イチャイチャシリーズで書かせて頂きました。
恋人ならただ会いたいだけで会いに来てOK!! のはず!
遅くなりましたが、捧げさせていただきます。